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kariaの日記 @ Alice::Diary

フフーン、ノリツッコミの鳩子がはてなブログ書いちゃうよー

kariaの日記です。本家サイトはside=2です。Twitter ID:@karia
過去記事へのリンクとかは最下部参照。

「とらドラ!」アニメ派と原作派の微妙な関係

anime

最近のTwitter上での発言見ていただければ分かるとおり今とらドラ!のアニメにものすごく面白いと思っていてハマってるわけですけども、その同じTwitter上で「原作を読んでいる」ことを理由にアニメ版を微妙もしくは無理と評している人が、少なくとも4人は確認できるわけで、ちょっと多いなぁと思ったので色々書いておきたいことが。

作品としてのアニメーション

原作との差異を理由にああ違うこう違うと細かいレベルまで指摘して忌み嫌ういわゆる「原作原理主義」の人はたまーにいるんですけど、今回のはちょっとそれはとは違うなと思うわけで。とらドラ!の原作とアニメの間に何か大きな違いがあるということは容易に想像できるのです。大きなイベントを飛ばしているとか、表現の違いが無視できないレベルであるとか。

とは言っても今回のアニメが(原作との関係性をとりあえず置いておいたとして)単体のアニメーション作品として成立していることは紛れもなく事実であって、アニメ単体を現在楽しんでる人が今すぐ原作を読まなくてはならない理由はないし、むしろその差異に困惑してしまったり、アニメで初めてストーリーに触れたことがアニメ版を楽しめた大きな理由であることに気付いてしまったりするため、アニメ版を純粋に楽しめなくなる可能性は高いです。なので私はとらドラ!の原作はアニメ最終回が終わるまで封印することにしました。

アニメーション原理主義

それで最終回が終わってから原作を読んだとして(もしくは仮に第1回より前に読んでいたとして)、私が「原作の方が面白かった、アニメは微妙だ」という結論に至るのか?というと、そうとは言えないと思います。何故かというと、作品としてのアニメーションを楽しんでいるか、アニメーションという枠組みを楽しんでいるかの違い。

数多くある媒体の中でたまたまアニメーションという枠組みで作品を楽しんでいる場合は「アニメーションであること」の重要性というのはそれほど高くないし、だからこそマルチメディア展開というものが成り立つわけですけども、アニメーションという枠組みで放送されるモノ自体に興味がある場合はどうでしょうか?もの凄く端的に言うとどんな糞アニメでも楽しめるかどうかという話。

世の中のいわゆるオタクと言われる人種の人たちでも多くは前者ですけども、ラノベヲタやエロゲヲタがいるのと同様にアニヲタというのも存在して、アニメというフォーマットに乗るだけである程度の楽しみを得られるわけです。その上であーだこーだ言いますけども。

そういう事情を考慮すると、仮にアニメがどんなに原作を踏みにじっていても「それはそれ、これはこれ」と考えられる人が出てる可能性はあって、これを「アニメーション原理主義」ととりあえず呼ぶことにします。アニメの制作者の人のインタビューを見ていると、「原作は原作として、アニメはアニメのやり方を」という考え方はかなりよく見かけるものです。

これはアニメーションには尺の問題や採算性の問題が強くつきまとうので致し方ないところなんですが、視聴者の側で「それはそれ、これはこれ」という考え方ができる人はそう多くありません。それが可能なのがアニメーション原理主義、つまり重度のアニヲタというわけですね。

ライトノベル原作という特殊性

そもそもライトノベルという原作は果たしてアニメという媒体と親和性が高いのでしょうか?

ページ数や巻数などの分量の制限がゆるく表現によっても大きく尺を変えられるライトノベルと、フレーム単位で厳密に尺が決まっているアニメーション、という風に単純に尺の問題とすることもできますけど、もっと根本的なところではないでしょうか。文章という曖昧な表現手法を用いているライトノベルはその曖昧性を想像に変換する力を使って感情を揺さぶっている部分が大きく、他の媒体への100%移植は難しいのではないかと思います。100%どころか50%すら厳しい。

だからアニメ化するなというわけではもちろんないですが、原作に忠実にするということは「曖昧な部分を増やす」ということに他ならず、厳密にその瞬間の絵や音を決定しなければならないアニメとしては大変悩ましい問題で、アニメの制作者側が「アニメではアニメのやり方を」という選択を取ってしまいがちになるのは十分理解できます(まあ「オレオレ」なやり方すぎて失敗する例も多々あるわけですけども)。

個人的な考えですけどもライトノベルやそれに割と近いギャルゲ方面でうざったい語尾を付けるキャラクターが多いのは、その語尾の部分をテキストで表記することによって「実際の喋り」は各個人の想像に一任されるため、うざったさが軽減される上にキャラクターを印象付けに有効になるからでは、と思っています。このあたりもライトノベル(というか文章媒体)の「曖昧さ」を表しているのではないかと。

まとめ

長くなりましたけど、私としては「アニメと原作を比較してアニメが微妙」と結論付ける行為*1にはあまり意味が感じられないなぁというのが正直なところです。この感情は万人に適用できるものではないですけども、そういう考え方もあるということを知って欲しかったので長々と書いてみました。

ほんとは採算性の話題を掘り下げるともっとカオスになるんだけどもさすがにやめた。

*1:同じモノとして比較したくなる気持ちはわかりますけど。